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桜丘市民センター

TEL. 093-522-5233

〒802-0022 北九州市小倉北区上富野5丁目6-21

周辺の名所・旧跡THE NOTED PLACES

企救の高浜(きくのたかはま)


企救の高浜



企救の高浜」説明板
   万葉集にも歌われた美しい海岸

 万葉の昔から、小倉から門司の大里にかけての海岸は長く緩やかに円弧を描いた白い砂浜と緑濃く根の浮き出た松が見事だったそうです。その美しさは万葉集に6首収められています。
 
   豊国の 企救の高浜 たかだかに
        
君待つ夜らは 小夜ふけにけり
 


大宰府に往来する貴人や防人の心を慰めていた景勝の地も今は埋め立てられ鹿児島本線と国道199号線が通っています。
「企救の高浜」と題した説明板が高浜2丁目に建っているだけです。

 
  豊国の 企救の長浜 ゆきくらし
        
日の暮れゆけば 妹をしぞ思ふ


須賀神社(すがじんじゃ)

 
小倉藩主小笠原忠苗が 
奉献した鳥居
   千年を超す富野と赤坂の氏神様

 富野と赤坂の氏神様で、平安時代877年の建立と言われています。古くは若一王子社(にゃっこうじしゃ)といい、地元では「にゃっこうじさん」と呼んでいたそうです。1871(明治4)年に「若一王子社」から今の「須賀神社」に改称されました。由緒ある社殿は1953(昭和28)年の北九州大水害で流され、1972(昭和47)年に再建されました。


延命寺川(えんめいじがわ)


延命寺川
    足立山と海をつなぐ悠久の流れ

 標高597.7mの足立山(霧ヶ岳)北斜面の谷が大谷渓谷です。この渓谷の川が延命寺川で、古くは大谷川と呼ばれていました。大谷には三つの池があり池から出た延命寺川は上富野台地と赤坂大地の間を通って高浜に注いでいます。
 延命寺川は1953(昭和28)年の北九州大水害で大きな被害を受けました。その後の復旧・改修工事は昭和50年代までかかったそうです。水質浄化に伴いホタル復活運動がおこり、人々の目を楽しませてくれています。


忘言亭跡(ぼうげんていあと)

 
   富野台の中腹にある北公園付近からの眺め
松島に勝るとも劣らない絶景

 今の富野台があるところは、かつて稲荷山と呼ばれていました。この山腹に小倉藩主一族の小笠原蔵人が1800年初頭に建てた別荘があったといいます。余りの絶景で「言葉も忘れてしまう」という意味で忘言亭と名付けたたそうです。富野台が開発される前は礎石や井戸が残っていたのですが、今は住宅が建ち並び名残を留める物は何一つ残されていません。


延命寺(えんめいじ

 
黄檗宗 延命禅寺を掲げる本堂



山門に建つ「東北山」「延命寺」
      の石柱
 東北・鬼門の方角から小倉城を守る

 
最初の延命寺は小倉城の東北・鬼門の方角に当たる赤坂の山にありました。1711年小倉藩主小笠原忠雄が天台宗延暦寺の末寺として建てたものです。当初は東北山延命寺と称し1735年には徳川家康をまつる東照宮も建立しました。幕末に長州藩と戦った「小倉戦争」で東照宮も延命寺も破壊され、一帯は長州藩の領地になりました。



 延命寺を再興したのは寿山町にある黄檗宗広寿山福聚寺の紫石和尚です。和尚は廃寺となった境内に残っていた観音堂から仏像を今の上富野4丁目に移し1914年に延命寺観音寺を建て開祖となりました。禅寺として復活しましたが、後に寺名を東北山延命寺と元の名に改めて現在に至っています。


道祖神(どうそじん)


路傍にたたずむ赤坂の道祖神


住宅地に建つ高浜の道祖神
    旅行く人の安全を祈る路傍の神

 
猿田彦大神は日本神話に登場する神で、神々が降臨した時に道をてらして案内したと伝えられています。いわば「道の守護神」です。
 赤坂5丁目の路傍にある道祖神は「文政二歳 猿田彦大神丑三月吉辰」とあり1805(文化2)年3月のものです。



 路傍から移転して住宅地の一角に建つ高浜2丁目の道祖神の石には「文政三庚辰年 猿田彦大神 三月吉日」と刻まれ、江戸時代後期の1820(文政3)年3月に建てられたことがわかります。


 小倉から門司の大里まで門司往還と呼ばれる道がありました。高浜2丁目から赤坂5丁目にかけて東西に延びる道路が往還の名残をわずかに留めています。


水かけ地蔵


お地蔵さん
   湧き出る水とお地蔵さんの癒し

 国道3号線の手向山トンネルの少し小倉寄りの山側に祀られています。正面に石室が三つあり、たくさんのお地蔵さんが収められています。以前はもっと海岸に近いところにあり10m近く盛り上がっていて、一番の難所で「地蔵鼻」とも呼ばれていたようです。旅人はお地蔵さんに水をかけ手を合わせて安全を祈り、清水を飲んで疲れを癒したといわれます。


手向山


手向山公園脇に立ち並ぶ
宮本家の墓


宮本家代々の墓
宮本家代々の墓所
  宮本山とも呼ばれた武蔵ゆかりの山

 この山は、1632年に小倉藩主小笠原忠真から宮本伊織が拝領したもので薪をとる燃料山として与えられたようで宮本山とも呼んでいたそうです。また、伊織は武蔵の養子で麓の手向け山公園脇には伊織以下の宮本家代々の墓が立ち並んでいます。山頂には関門海峡に浮かぶ巌流島で闘った剣豪二人の碑が建っています。
 


 武蔵の養子であり、小笠原藩筆頭家老であった宮本伊織の墓を中心に宮本家の墓が並ぶ。明治時代に砲台が築かれるまでは、宮本家の所領であった手向山の山頂に武蔵の碑と供にあったと伝えられる。

宮本武蔵の碑


養子の伊織が建てた
宮本武蔵の碑
山頂には関門海峡に浮かぶ巌流島で闘った宮本武蔵の碑が建っています。宮本伊織が1654年に養父をたたえて建てたもので自然石を削って千字を越す碑文が刻まれています。決闘から42年後のことで、武蔵が亡くなってから9年後のことになります。山頂には関門海峡に浮かぶ巌流島で闘った剣豪二人の碑が建っています。
 

佐々木小次郎の碑

 佐々木小次郎の碑
家の村上元三が寄贈した
佐々木小次郎の碑
 この碑は作家の村上元三が新聞に連載した小説「佐々木小次郎」の完成を記念して小倉市に寄贈したものです。
1951年(昭和26)年に建てられました。
 碑には村上元三の句<小次郎の眉涼しけれつばくらめ>がきざまれている。

小倉戦争 

 赤坂東公園に建つ
 「激戦の址」の碑

                  
 
延命寺山の長州奇兵隊戦死墓


 
延命寺境内の奇兵隊戦死墓
   赤坂一帯を戦場に長州との戦い

 動乱の幕末に幕府側の小倉藩が討幕派の長州藩と戦いました。1866年(慶応2年)7月の戦いは熾烈で、現在の赤坂2丁目と3丁目の一帯は戦場と化したそうです。
 この戦いでは長州藩奇兵隊に多数の死者が出ました。遺体を放置したまま引き上げたため小倉藩で手厚く葬りました。1868(明治元)年になり長州側が遺骨変換を求めますが、小倉側の「我々の気持ちを無視するもの」との反発にあい断念したそうです。




 そこで長州側は芝玉禅師を小倉に行かせ墓守としました。そこには「慶応丙寅ノ戦績」の石碑とともに「長州奇兵隊戦死墓」があります。






 もう一つ延命寺に墓石があります。門を入った右側で、なぜか上えの3文字がかけていますが奇兵隊戦死墓です。
「長州奇」が欠けています。


小倉鉄道


開業したころの東小倉駅
   「足立
山麓の史跡を探る」より



国道3号線沿いに残る階段跡
   足立山麓に私鉄が走っていた

かつて足立山麓に沿って南北に鉄道が走っていました。日露戦争後の1906(明治39)年に設立された小倉鉄道株式会社です。難工事のため8年余りかかり1915(大正4)年に東小倉ー添田間の全線40Kmがかんせいしました。
 東小倉駅は国道3線の上富野1丁目のバス停付近で、国道から駅舎があった場所へ降りる急な階段が雑草の茂ったまま残っています。
 小倉鉄道は石炭輸送を主な目的としていました。そのため高浜海岸24,000坪を埋め立て、500トン級の石炭運搬用の帆船が入れる桟橋をを作り、近くには14,000坪の貯炭場も造成しました。その後、沿線の各地で石灰石が採掘され、1935(昭和10)年には香春町に浅野セメント、東谷村に東洋セメントが工場を新設したためセメント輸送も盛んになったそうです。
 旅客の輸送も年々増え、観桜列車や蛍狩り列車、紅葉狩り列車なども走った様です。大変ににぎわった小倉鉄道ですが1943(昭和18)年の国鉄による戦時買収によって私鉄としての姿は消えてしまいました。

バナースペース

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