響灘を見下ろす標高35m〜55mの丘陵斜面に、造られた13基の横穴式石室古墳群で、大正時代までは50数基あったと言われていますが、周辺の宅地開発によって失われました。現在は、古墳公園として墳丘や散策路など整備されています。また、昭和46年に市の文化財に指定されています。 この古墳群は、いずれも円墳で、石室は遺体を納めた玄室(玄室)とそれに通じるせん道(せんどう)からなっており、各古墳とも数回にわたって遺体が埋葬されております。また、出土品としては、須恵器、土師器、碧玉製管玉、金環、ガラス玉等が発見されています。これらのことから、この古墳群は6世紀後半に造られたと考えられています。 |
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明治43年(1910年)、日本は「韓国併合に関する条約」を発効させて、朝鮮半島を植民地にしました。この条約により、土地や生活基盤を奪われ、日本への移住を余儀なくさせられた多くの朝鮮の人々がいました。また、第二次大戦中は、日本へ強制的に連れて来られ、工場や炭坑などで過酷な労働を強いられた人も少なくありませんでした。このため、昭和20年8月15日の終戦により、解放され多くの朝鮮の人々は、先を争うようにして祖国へ帰郷していきました。そのようななか、昭和20年9月17日折りからの枕崎台風に遭遇し、若松沖で遭難した人々がいました。海岸に打ち上げられた遺体は、地元の住民によって小田山霊園の一角に埋葬されましたが、その場所はつい最近まで荒れたままで放置されていました。その後、1981年から取り組まれた市民運動によって、1990年12月北九州市によって慰霊碑が建てられました。 |
火野葦平の小説「女侠一代」のモデルとなった、西村ノブさんの墓が、小田山霊園内にあります。ノブさんの生涯は、小説の中で多少のフィクションもまじえて「島村ギン」という名で描かれています。彼女は、夏冬通しの薄いどてらを着込んで、日本髪を結い、駒下駄を履き、いつも二三人の若い衆を連れて歩いていたと云われています。また、婆さんと呼ばれていますが、明治44年に50歳で亡くなっていることから、畏敬の念が込められた愛称だったのでしょう。それは、筑豊興業鉄道(現JR筑豊本線)開通工事などに作業員を入れた功績で、鉄道院総裁から表彰を受けていることからも伺えます。 |
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深町市民センターができて今年で29年目になります。北九州で最初にできた2つの市民センターの内の一つとのことで、当時の深町の皆さんにはいろんな願いや思いがあったのではと想像します。当時を知る方々に少しずつお話を伺いながら、この場を借りて深町にまつわるよもやま話を地域の皆さんにもお伝えしていきます。 |
A シンボルマーク |
左のマークを見た |
B 深町まちづくり憲章 |
まちづくり憲章をつくって地域づくりに取り組んでいるまち協はどれくらいあるのでしょうか。 深町まちづくり協議会は、まちづくり憲章と共に発足しました。この29年間市民センターの市民ホール壁に掲示されてまちづくりの進む道を示してきました。今一度、皆さんと共に・・・・ |
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