昭和55年4月24日 開館。 平成12年4月1日 二枚看板 (八児公民館・八児市民福祉センター) 平成17年1月1日 八児市民センターへと名称変更。 町上津役・小嶺・小嶺台・大平4地区の住民の生涯学習の場及び憩いの場となっている。 |
「釈道遠教師」と刻まれている。西法寺で明治の初め頃まで子弟に読み書きを教えた。墓碑は門弟によって建てられた。寄せ墓には農民や童子、圭頭墓などふる里の時の流れを思わせる。 |
長崎街道沿いの蛭子神社の境内にある。享保九年(1724)を刻む。 干ばつのおり金山川まで運び、川につけて降雨を祈った。左側の石碑は貴船神。農業、水の神。上津役台地は水が不足するため、米作りに関わる文化財は多い。 |
旧金山川の岸にそびえている。 川の護岸の目的かクスノキの古株やエノキなどが見られる。 幹の周りは3メートル。町上津役には大木が繁茂していたが残りわずかになった。 |
江戸・上方(大阪)・京(京都)と長崎を結ぶ重要な交通路であり、古来から多くの人々と文物が往来していた。 江戸時代は、唯一外国に開かれていた長崎を窓口とし、オランダや中国の文化を日本に紹介する開かれた道であった。 現在、地蔵・お寺・石碑・墓地・溝・家並みなど、面影と風情が残っている。 |
いつごろ勧請されたかわからない。上上津役と小嶺の村境に安置され、村人の崇敬を集め今もお参りが絶えない聖域である。藤開花の頃は香りが漂う。小嶺側にも(旧地蔵ノ前)地蔵尊が安置されていた。江戸時代このあたりの小名を地蔵川といった。 |
橋がはじめて架けられたのは文化元年(1804)のことで200年になる。コンクリートの橋は昭和6年製で金山川の橋で最も古い。片側は道幅拡大で削られた。 |
校区まちづくりモデル事業ふれあい交流グループを中心に行われた活動の一環で、金山川周辺をきれいにしようと八児中学校南側一帯の荒地40平方メートルを整地し、花壇を作って、近所を散歩する皆さんに楽しんでもらうようにした。 |
一里(約4km)ごとに道のりの目安として作られたもの。松が植えてあった。 |
文政2年(1819)小嶺村の能美儀平が勧請。新幹線施設により改築。火災により再改築となる。帆柱四国57,58番礼所。お参りが絶えない名所。桜の頃は絶景である。 |
民家のすぐ側を流れる幅2m程の川で、5月中旬からゲンジボタルの飛翔が見られる。ピーク時には300頭くらいが乱舞する。 |
昔はタケノコは食材、竹は細工して竹製品に上手に利用していたが、高齢化と竹の需要が少なくなり、竹は山の上まで伸びて水源の森をおびやかしている。そのため少しでも竹の需要を増やし、森を守り水資源の確保につなげたいと思い、竹林の管理に炭焼きを始めた。 |
小嶺村の氏神社。社殿に参宮記念の絵馬や境内には瓦製の狛犬が奉納されている。鎮守の森の雰囲気がただよう。応永2年(1395)出雲国より勧請した。出雲大社に八千矛と記されたお神酒がある。大国主命のことである。 |
八幡西区随一の棚田の風景である。 道すがら、狭い田んぼや段差の高い田んぼを見るとこの棚田を開墾した開村当時の苦労と智恵がうかがいしれる。 小嶺の農家の方々の米作りの努力が環境保全とつながっている。 |
ベッコウトンボ生息地。市内緑地保全地区周囲はナシ山や湿地に近い田んぼなどであったという |
均整のとれた樹形が切られたのが惜しまれる。金山川沿いにもエノキやタブノキが守られている。このあたりもかつては多くの木々が茂っていたことがわかる。 |
昭和32年11月25日、不慮の坑内出水に遭い18名の尊き犠牲者を出すに至れり、その後排水作業に努力すること1年有半に亘りしも難工事の為、時の通産大臣高崎達之助氏の尽力に依り官民合同の調査団来抗の結果、遂に遺体収容を打ち切るのを止む無きに至る。是に慰霊碑を建立し冥福を祈る。 |
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