本文へスキップ
         
 校区案内地図  

 小倉南区の各地には、神楽をはじめ古くからの伝統行事や、古墳群・神社などの史跡・文化財、旧街道の遺構などが多く残されています。 

 


 公共機関他 

    長行小学校   北九州市小倉南区長行東三丁目8番1号   093-451-1013 
   菅生中学校   北九州市小倉南区徳吉南2丁目2-1   093-451-1005 
   長行市民センター   北九州市小倉南区徳吉西3丁目3番16号   093-452-3651 
   菅生児童館   北九州市小倉南区徳吉西2-5-1   093-451-0294 
   小倉南区役所 両谷出張所   北九州市小倉南区徳吉西三丁目7番1号   093-451-1001 
   西谷郵便局   北九州市小倉南区徳吉西3丁目5   093-451-3000 
   徳吉中央公園   北九州市小倉南区徳吉西3丁目5   
   徳光公園   北九州市小倉南区徳吉西2丁目5   


 史跡

 
 地図を見る   小嵐山 
 
  小倉藩主細川忠興は、この桜橋付近が京都の嵐山の風景に似ていることから、京都嵐山から桜の木を取り寄せ、この山一帯に移植したと云われています。
 その後、この山は小嵐山と呼ばれ、忠興の父である細川幽斎がこの地で遊んで詠んだ歌が残されています。
 
「豊国の嵐の山の麓川
    岩超す波は桜なりけり」
 

 
 地図を見る   秋月街道 
 
 桜橋の20m位手前から左に川沿いに入り分岐点の赤レンガで囲ったつつじの植栽の中には「小嵐山入口」の標石があります。
 
 


    紫川 

 昔は桜川とも呼ばれていました。
名称のいわれについては諸説ありますが、その一つに小倉南区蒲生の鷲峰山大興善寺の門前に残っていた万葉集の歌枕として詠まれた「企救の池」の名残といわれる「桜池」があります。
 他に、染料に使われていた紫草の花が咲くと河原一面紫色に染まったからなど、ロマンあふれる言い伝えもあります。
 
 

 
 地図を見る   椎山城 
 
 明治初期に作られた「企救群古城址取調簿」に以下のように記載されています。
 
 「志井村の西方、古川山の頂にあり。東西十五間、南北二十間程の楕円形の平地で、わずかに城台の形を残している。また、西方一町ほどの山原に駒繋ぎと言う所があり、切り石の柱が存在している。長野豊前守種盛が築き、応永年中は同兵部少輔義富の第四子左兵衛佐義衛が城主である。同六年大内盛見から攻められて落城する。」
 
 標高223mの椎山山頂に主郭を築き、北側に延びる尾根筋に切堀、曲輪群が築かれ、また主郭から東南と南西および北東に延びる三つの尾根にも曲輪群が築かれており、椎山全体が城郭となっています。
 

 
 地図を見る   延命地蔵 
 椎山城址駒繋碑(馬くくりの岩
 
 
 二市一群新四国霊場となっている古川の地蔵堂で、本尊は地蔵菩薩です。
 傍らに駒繋ぎの柱と言われている立石があります。
 村人は馬つなぎ石と呼び、また馬頭観音とも云われています。
 椎山城が山城であったため、姫等はこの石に馬をつなぎ、縁台に乗り換えて城に入ったと言われています。このため、この場所を「姫下ろし」とも云われています。
 

 
 地図を見る    妙眞寺 
 
 古川の山沿いにあるこの寺は宮本武蔵の養子宮本伊織が創立したもので、300年余の歴史を有します。
 昔から古川集落は、洪水・水難が多く、その災いから村民を守るための主語佛として毘沙門天王をお祀りしています。
 現在も、紫側の河川増水の災害に見舞われた時など、古川地区の避難所として本堂を解放してくださっています。
 
 

 
 地図を見る   二一群新四国霊場第二十七番札所 
 徳光神峯寺 

 
  徳吉南1-1
 
 

 地図を見る   亀年橋 

 
  妙眞寺の入口に程近い位置にかかるこの橋で、古川と長行方面がつながっています。
 その昔、この橋を架けるために川を掘るととても大きな亀石が出てきたそうです。
 その縁起の良い亀にちなんで「亀年橋」と名付けられました。
 途中、豪雨災害に見舞われるなどのアクシデントもありましたが、平成22年4月、新生「亀年橋」の落成となりました。
 紫川をはさんで東西に広がる長行校区の人々の生活には欠かせない橋といえます。
 
 

 
 地図を見る   いぼ地蔵(小夜姫 いも仏様) 

 
 合馬に行く途中にある新四国霊場の社の裏に小さな社があります。
 大変足場の悪い位置にありますので、お参りには十分お気をつけ下さい。
 

 
 地図を見る  猿田彦大神(道しるべの神様) 
 
菅生児童館のそばにあります。
桜橋近くのビルの傍らにもあります
 

 
 地図を見る   稲荷神社 


 元慶4年(880年)、稲荷の神を山城の国より吉金山に勧請しました。
 応永年間(1394〜1428年)三岳の城主長野三郎左衛門尉胤義基が徳光山に再建し産杜としました。永禄12年(1569年)三岳の城主長野三郎左衛門尉胤盛、落城に及んで社殿は荒れはててしまいました。
 慶長年間(1596〜1614年)に長野吉辰の子孫「大野氏」が時の藩主細川氏に嘆願し、宮を徳光山に還し再興をはたしました。
 校区にただ一つ残っている子供会「徳光子ども会」の子たちは、祭りの時にみこしを担ぎ、町内を練り歩いています。
 境内に寛政2年(1790年)建立された鳥居があります。



提供
長行校区まちづくり協議会

QRコード